Annex of Theatrum Mundi

絶賛更新停滞中のはてダに加えて停滞するblog的な何か

文章を書けという声が聴こえ

現時点で、2名から文章を書けということを言われた。一人は家族というか姉で、もう一人は先輩である。ここで日々繰り広げられる筆者のろくでもない日常の記録を読んで言ってくれているらしい。筆者は文才が無いことを自覚しているので、そんな柄じゃないといっているのだがなかなか納得してくれないので困っている。もっと時間があれば考えなくも無いのだが、いかんせん仕事とそれにまつわる雑用が多くてとてもそんなヒマが無い。当分まとまった文章を書くだけの余裕はなさそうなので、日々雑文を書いてお茶を濁すことにする。
また上記のような事があったので、それに伴っていろいろ考えてみた。その中で思いついたことを書いてみる。以下の文章は多分にイノセンスというか押井守の影響を受けた内容である。
人はそれぞれ状況に合わせた対応というか人格をもっており、それを使い分けている。押井守の言葉を借りれば、人はそれぞれ人に見せる仮面(ペルソナ)を持っているということになる。私の場合、この仮面の数が多いと自分では思っている。対家族用、対仕事用、対後輩用、対先輩用など、相手に合わせて対応と話題を分け、さらに語彙もそれぞれに合わせて準備しておくということをやっているつもり。なぜそんなしちめんどくさい事をしているかといえば、昔「いい子」だったときの癖で、相手に気に入られるための努力を最大限に行った結果である。そうすることで、相手の期待する自分を演じ、またそれを演じつづけることで関係を維持することが出来る。その結果として、人に嫌われない「いい人」だと思われていたりする(実際の中身は今までのここの記述からもわかる通りダメなのだが)。しかしこの対応の問題点として、相手と対立することが出来ない、または許可されないということが挙げられる。自分が許容できる程度に相手の期待が収まっているうちは良いが、得てして「いい人」は人から多くを求められて破綻をきたす。特に、エゴがぶつかり合うような場合や恋愛関係などにおいてその傾向は顕著に表れる。最終的に、自分以外の人間とまともに人間関係を結ぶことが難しくならざるを得ない。かくして、私は孤立していくというわけ。むしろ、それを望んでいるともいえる。そんな私の癒しの手段がこの内容が無い日記をつらつらと書きなぐることなのだが、一人で書いて一人で読むだけなので却ってストレスを増大している感もある。
以上の内容の結論は、要はコメントが欲しいというそれだけ(w。1日100件以上のアクセスがあるのは非常にありがたいことで、皆様に感謝の念を禁じ得ませんが、レスポンスがほとんど無いのでネタというか方向性に苦しむ毎日でもある、というわけで、皆様が読みたい内容がありましたら、コメントかメールにてどうぞ(w。よろしくお願いいたします。
以上、きょうはこれまで。お休みなさい。
今日買った本