Annex of Theatrum Mundi

絶賛更新停滞中のはてダに加えて停滞するblog的な何か

Role Playing in Innocent Network

われわれの神々もわれわれの希望も、
もはやオンラインにしかありえないものであるとすれば、
われわれの愛もまた
オンラインであっていけないいわれがありましょうか

元ネタ:ヴィリエ・ド・リラダン未来のイヴ

上のはもちろんイノセンスからの借用で、このネタを思いついたのは清涼院流水・著「キャラねっと」を読み終わったとき。
んで本論。最近、オンラインRPGを描いた作品が結構ある。押井守・監督の「Avalon」とか、「.hack」とか、上記の「キャラねっと」とか。他にもあるかもしれないが、私が把握できているのはこの位。これらに共通しているのは、現時点のテクノロジーでは実現困難なことと、主人公がそのRPGを前提とした生活を送っていることだろう。前者の特徴(というか問題点)については、時間が解決するだろうと思うので、ここでは述べない。よって後者の特徴について述べる。
まず、RPGを前提とした生活というのは、現実世界での行動がそのRPGのプレイを維持するため、もしくはRPGを攻略するのに使われていることをここでは指すものとする。これについては、現在でも似たような話がある。一例を挙げれば、「ネット廃人」と呼ばれるまでプレイする人間が現れている。韓国では、RPGのやりすぎ(?)による死者も存在する。さらには、RPG内のみに存在する金銭やアイテムが、実際の(政府が発行する)金銭によって交換されている。伝聞による情報なので正確さを欠くが、RPGのアイテムを現実世界の金銭で売買して生活する人間もいるらしい。ここで私が注目するのは、オンライン(には限らないが)RPG上でのパラメータ向上やアイテム入手が現実世界での同様の行為より優先されているという事実である。これを端的に表現すれば、現実の食事よりビットのON/OFFの方が価値があるということになる。
何故このような事態が発生したのかを考察すると、現実の生活がビットのON/OFFと変わらない、もしくはまったく等価になったことによるのではないだろうか。わかりやすい例としては、「勝ち組・負け組」という区別(という名の差別)が日常的に行われていること、さらにその区別がDNAなどに対する知見の増加と共に生まれや遺伝的特性によるものとの認識が広がっている(正確にはそうであるという教育がマスコミを通じて行われている)ことである。現実世界では前述のようなあらかじめ決められた階級があるのに対し、RPGではみな同等の階級からスタートし、かけた時間と金銭によってより高い階級に属することが出来る。つまり、RPGの方が現実世界よりも簡単に虚栄心を満足させることが出来る、というわけである。この思考の転換は実はオンラインRPGに限定される話ではなく、blogにおけるMy Blog Listのランキングや、コミケの外周サークル、2ちゃんねるでの「神」など、他のあらゆるメディアで存在するのではないだろうか。言うなれば、自らの権威付けによって自らのアイデンティティを確保する行為が広がっていると私には見える。もちろん、私もその例外ではなく、ここにこの文章を書いているのが証明となる。
結論:現実世界での評価向上とRPGのレベルアップは等価である。
P.S.我ながら、暴論だな(ボソッ。