Annex of Theatrum Mundi

絶賛更新停滞中のはてダに加えて停滞するblog的な何か

僕たちは車輪を再発明することしかできないのかもしれない

桜庭一樹涼宮ハルヒなどを読んだ感想というか雑文を少し。といいつつ長めなので読み飛ばし推奨。

現在において小説という媒体はもはや浪花節というか誰もが理解の範疇にある小さな物語を運ぶメディア以外の何者でもないのかもしれない。少しだけ分析的に言うと、桜庭一樹は民話に現在的アレンジを加えたお話、ハルヒはSFとミステリとファンタジーのエッセンスをミックスした物語です。ここで書いたのはライトノベルに分類される作品ばかりだけど、純文学により近いとされている芥川賞直木賞の受賞作品が「家族」の変容を描いた作品ばかりになって何年経ちますか?と反論したい。

要は、人間の想像力が肉体に縛られている以上、これ以上革新的な物語は発生しないのではないでしょうか。人間の肉体が限界に近づいているということの傍証としては最近ニュースであった↓これ(元のニュースが流れているのでblogを引用)があります。
http://www.doronekoia.jp/2008/02/707.html
人間の知能も肉体という基盤に基づいている以上、肉体が限界を迎えたら知能も限界を迎えるというのはあながち間違っていない気がする。また、ネットワークによって知識の流量が人間一人の脳には入りきらないくらいに増えたというのも大きいと思う。

ただ、可能性としては知識の多寡が本質的な差異ではなくなることで新しいパラダイムに移行することもあり得る。例えば今の小学生には生まれたときからネットワークがあり、その上でアイデンティティを構築することを考えると、私とは全く異なる地点から物事を眺めることができるだろう。様々な意味を含有しつつ、私は未来に希望を持ちたいなと感じる今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。

gdgdながら、ここまで雑文をお読みいただき誠にありがとうございました。