Annex of Theatrum Mundi

絶賛更新停滞中のはてダに加えて停滞するblog的な何か

僕たちには未来が必要だ

タイトルは田中ロミオの著作をもじって、あと日記の見出しは渚カヲル君のセリフからw
以降「私たち」という単語が頻出しますが、私個人としていただければ結構です。私自身は全ての人が対象だと思っていますが。
もう誰もが気付いていて、それでいながら口にはせず密かに心に秘めていそうなことだけれど、日本という国には未来がないのだと思う。10年位前から私はぼんやりとそう思っていて、あと5年以内に決定的な事態が起きるだろうとずっと考えていた。幸いにもその決定的な事態が起きる5年先はまだ迎えていないけれども、おそらくそれは決定的な事態が誰の目にも見える形はとっていないからなのだろう。事実、私たちが生きている現在は10年前とも5年前とも決定的に異なっている。事象を列挙することに意味はないのでここではしないけれど、私たちが最早過去には戻れないことだけは明確だ。
別な言い方をすると、日本(人)を日本(人)として成り立たせるもの、成り立たせてきたものがどんどん失われている。それは勤勉さというような形で見えていたものだけれど、見えない何かをも含んでいる。これはよくある道徳とよく似ているけれどもそれだけではない。格好よく言えば「語りえぬもの」なんだと思う。これだと明言すればその瞬間形を変えてしまうもの、手に取った瞬間に崩れ落ちる何かだ。
かなりわかりやすく問題を単純化すると外国の脅威とでも言うのだろうか。国内に閉じた市場や場は最早絵空事になり、すべてが開かれた問いとして目の前に現れている。要は中国やインドなどの新しく興隆する国との競争/対比を避けることが出来ない舞台に私たちは立たされている。私たちがいつこの舞台に立ったのかということを考えると、おそらく1991年だろう。ベルリンの壁と同時に私たちの世界を隔てる壁は失われ、いわゆるグローバル社会に入ったと考えるのが妥当であると感じている。そのことに私たちが気付いたのはここ数年のことであろう。
話がループしないうちに結論の方向に進めていくと、日本という国の立場/地位は絶頂を迎えたと同時に没落が始まり、今後その地位を取り戻すことは極めて難しいであろう事は簡単に想像がつく。日本語という特殊な防壁で築いた城は完成と同時に崩壊し、既に重荷と化している。これもわかりやすく言うと、今までは英語も出来ることがメリットだったけど、今は日本語しか出来ないことがデメリットになるということである。なんか今日のはてブのランクにも似たような話が出ており、私の考えが新しくないことが証明されたのは喜びと悲しみの複合体として私の心に沈殿している。
あと年金とか政治とかロストジェネレーションとかの話題を絡めてもう少し議論を広げた上で精緻化したいけれど、今はまだ整理がまったくついていないのでトピックだけを示して今日の日記を終了することにする。

  1. 所得保障の必要性
  2. 教育の拡大、低価格化
  3. 産業の新陳代謝
  4. コミュニティの再生ではなく新生
  5. 家族の再定義