Annex of Theatrum Mundi

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あたりまえのこと

今年(時間的に言えばすでに昨年だけど)に最後に考えていたことは、いわゆる「世代論」というやつだった。以下のことはid:Maybe-naさんの12月28日の日記(id:Maybe-na:20061228)を読んで思いついたこと。
オタク間の世代論というのは非常に良く書かれている内容でもあるし、私も過去に書いたことがある。んで上記の日記に書かれたことを私なりに咀嚼してみると、

  1. オタク第1世代=18世紀以前の科学者
  2. オタク第2世代=19世紀の科学者
  3. オタク第3世代=20世紀の科学者

という図式が成り立つのかな、と思う。一応蛇足ながら解説しておくと、第1世代では複数の学問分野(数学と物理学など)に渡って功績を残した人が多い(そういう人しか名前が残っていないというのもあるかもしれないけど)。一例を挙げればレオナルド・ダ・ヴィンチとかガウスとかオイラーとか。それに対し第2世代になると、ある特定の学問分野でのみ功績を残す人が多くなる(リーマン、ヒルベルト、マルコーニなど)。更に時代が下って第3世代では、学問分野より更に狭い区分に分化していく、という感じ。
それがなぜ起こるかというと、一つの学問分野を収めるのに必要とされる知識の量が飛躍的に増大したからであろう。別の言葉で言えば蓄積した歴史が多くなっているということ。知識(歴史)が蓄積されればそれを概観するだけでも相当の手間がかかるし、さらに解釈の余地が生まれる。一人の人間の脳で処理可能な知識の量というのは有史以来それほど変わっていないのに対し、知識そのものは飛躍的に増大し続けているから必然的に人間が使える(解釈できる)知識の範囲というものは狭くならざるを得ないだろう、と言える気がしている。
オタクの場合には軍事、歴史、文学等たくさんの分野の知識を持つことでオタクたり得ていた第1世代、その中から一つの分野を選択した第2世代、分野の中の小区分を抽出した第3世代、ということになる。まあ実際にはこんな画一的な分類は無意味だし、事象を正確には表現していないのは明らかなんだけど、工学的な立場で言えば事象のモデル化としてわかりやすいのでそれなりの意味はあるかな、と思われ。
自分の身にこの話を適用してみると、私の立場は複数の第3世代の集合として第2世代としての擬似的な足がかりを作り、それを更に複数集めて第1世代として振舞う、という中途半端な位置にある。それがどうした、という突っ込みは想定の範囲内ですが、ががが。
まあ、世代論の意味は上の世代が下の世代に対して「最近の若い者は・・・」と愚痴を言うことに本質がある気がします。これを書く動機が「萌え」とか口に出してしまう(しまえる)自分よりも若くて未来のある方への怨嗟にあるからそう思うだけですが、ががが。
最後に、結論としては「本を読んで、考えよう」という感じで。私は携帯電話で小説を読まない古い世代なので本というのは紙媒体を想定していますが、私の知らない次の社会が生まれつつある現在、Webにある情報も歴史として語られるようになっていってすべて電子化されるのかもしれません。以前あるシンポジウムに参加して非常に納得した言葉がありまして、「データは意味を持たないがそれに人間が意味をつければ情報になる」というものです。本もWebも読まれなければただのデータですが、読んで解釈されればそれは情報になります。願わくば、この文章が情報になることを期待しつつ終了。