Annex of Theatrum Mundi

絶賛更新停滞中のはてダに加えて停滞するblog的な何か

攻殻機動隊は古典になったのか(新書的タイトル)

久々の更新ですが、以下のブログ記事を読んで反論というか補足というかしたくなったので。あまり具体的なストーリーの話はしないで構造の話だけをするつもりですが、ネタバレが含まれますのでご注意ください。

http://blog.livedoor.jp/omaenoteki/archives/30226075.html

























まず前提として、作者・監督が違う作品はすべてパラレルワールドとして認識した方がよい、というのを置いておきます。これは、押井版は原作1巻の別解釈、SACは人形遣いに出会わなかったパラレルワールド(公式でそう謳っていたはず)、ARISEは全体の前日譚ということで時制もしくは背景が異なるということからです。
その上で原作の構造を見てみると、1巻Ghost in the Shellは素子の成長の物語、1.5巻Human Error Processerは素子のいない刑事ドラマ(一部素子の子孫も登場していますが)、2巻Man Machine Interfaceはそれぞれが進化の袋小路に入り込んだ素子の子供たちが繰り広げる生存競争と孫世代の可能性の物語となるでしょう。また物語の進行を見ると、1巻と2巻は時間と局面が進んでいるのに対し、1.5巻は進んでいません。
これをアニメと対応させてみると、

のようになるのではないでしょうか。SACは原作1.5巻のエピソードを結構参照していますので、当たらずとも遠からずというところではないか、と踏んでいます。SACが時間が進んでいないということの根拠としては、2nd GIGのラストが原作1巻冒頭のオマージュ(桜の24時間監視任務)であることがあげられると思います。別の言い方をすると、1巻と押井版は素子自身のドラマ、1.5巻とSACは素子を取り巻く環境のドラマ、2巻とSSSは親となる素子のドラマであり、それぞれ異なる視点から観た近未来SF作品の総称として「攻殻機動隊」というブランドが確立されているのではないでしょうか。

作品を読み直したり観直したりせずに記憶およびそれと区別できない思い出のみで結末を想定せずにつらつらと書きましたが、「攻殻機動隊」という20年以上生き残っている物語に対してひとつの視点を提供できていればいいな、と思いながら終了します。