Annex of Theatrum Mundi

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合理性って何だ 大二病編

最近今までは問題がないとされていた分野で問題が起きている気がする。まあ、年金とか少子化とかワーキングプアとか。ネット界隈のネタだと教育とかトリアージとかもそうかな?これについて、ソースはないけどつらつらと考えてみるテスト。

これらの問題はよく格差という言葉で説明されているけど、実態は新たな貧困(弱者)の発生とその固定化が進んでいることが最大の問題点だと思う。最近までは隠蔽(?)されてきたこれらの問題がここ数年で一気に深刻になっている要因は、大きく言えば環境の変化ということに尽きるだろう。古典的なダーウィン流の進化論的には、貧困の発生は自然淘汰の結果だ、ということになるのかもしれないけど、一応社会性生物ということにされているヒトにおいてはそんな単純な議論で結論を出すことは避けたい感じ。

上記の現象を捉える視点は主に経済学的なもので、まあ資本主義社会(日本は資本主義なのかという議論はおいておくとして)としては妥当なんだと思う。アカデミズムのジャーゴンで言えば妥当性が認められる、というところ。経済学だから合理的である、のほうが良いのかしら。ここで妥当である、合理的であるとされるフィールドからの議論で、ある程度広い範囲を想定していることになる。想定しているフィールドを指す言葉を2ch的に表現すると、

世界>大陸・地域>国家≒社会>コミュニティ>個人

という感じ。コミュニティは色々会社とか組織もあるだろうし、もっと小さいもの(サークルとか)も含んでます。どこかのフィールド間にある超えられない壁は割愛www。まあ、国家≒社会がここでの議論の妥当なフィールドだと思っています。

ある条件下である程度妥当である上記の問題のスキームにあえて他の視点を投入してみると、なんとなくだけど問題の姿が見えてくる気がする。一言でまとめると、「国家≒社会レベル以上のフィールドでの環境の変化がそれ以下のフィールドの環境を激変させ、結果既存の合理性が意味を消失した」のではないかと。

一例として結婚の例を挙げてみると、明治から昭和にかけての結婚観というのは社会的合理性(イエの存続とか)と経済的合理性を兼ね備えていたと思われます。しかし社会の変化(核家族化・雇用機会均等など)によって社会的合理性が弱まり、現在では経済的合理性のみが結婚の是非を判断する基準になっています。結果非モテとスイーツ(笑)というようなカテゴライズとその間での断絶が起き、結婚しないことが最善であるというような言説がまかり通る訳です。

あと年金については、少数の高齢者を多数の若年層が支えるという構造であったわけですが、長寿化と少子化によって多数の高齢者を少数の若年層が支えるという構造の逆転が起きています。これも右肩上がりで経済が伸び続けて若年層が豊かになっていく、という奇跡が起きればどうにかなったのかもしれませんが、残念ながらバブル崩壊とその後の「グローバル化」という現象によって若年層の収入が増えるどころか減少の一途をたどったことで破綻が目に見えています。こちらは社会的合理性よりも経済的合理性が失われたことによって問題となっており、一部の論者は高齢者の抹殺やら戦争を待望するというような過激な言説を撒き散らしています。

これらに加えて、少し出てきた「グローバル化」によって上記の構造そのものが吹っ飛びかねないというステキな時代に我々は生きているわけです。今我々が外食すると、大概対応する店員は外国の方々です。また今までやっていた業務をアウトソーシングする先は中国やインドなどに拠点を持つ企業です。さらに、昨年度東大卒の優秀な方々が主に就職したのはGoogleなどの海外企業で、今まである程度堅調だった国内のSIerとかは惨憺たる状況だったそうで。もう、国内問題ですらも解決するには世界を相手にしないといけないようです。ここで感情的に右翼傾向を強めて外国人排斥とかやってもかえって自分の首を絞めるだけなのが厳しいところ。戦争しても儲からないしね。

この駄文の結論としては、

  • 問題を切り分けるには複数の視点・観点からの評価が必要なこと
  • 問題を解決するにはを複数の合理性を追求しなければならないこと
  • どんな問題も解決できる魔法の手法はないこと(No Free Lunch定理)

といったところでしょうか。

私みたいな一介の使用人が何故こんなことを考えたかというと、頻発する問題に対して先例主義や年功序列方式、スペシャリストを積極的に排除するというような手法で立ち向かおうとしているからでした。数年後の結果が非常に楽しみですね(棒読み)。